2009年12月09日
7年前の今日
いつも、毎日
『かつたぅ〜(俺のこと)、お母さんいるね〜?』
という電話がかかってきて、
我が家に青い軽トラに乗ってきて、仕事の領収書をかかせるのが、日課で、毎日元気でパワフルで、青い軽トラに乗り、あまかいくまはいをしていた、おじい。
そんなおじぃに異変が起こることとなる。
すべての始まりは、2001年10月10日からが始まりだった。
いつも元気なおじぃが体調不良を訴えた。
いつも、元気なため、病院には絶対いかないおじぃが病院へいきたいといい、母が病院へ連れていったことがきっかけだった。
体調不良なのは、あたっていて、すぐ、入院をしなきゃいけないという話になった。
いざ、入院生活がスタートし、最初は病院が苦手なおじぃ。
大変だった。
だけど、人と会話の好きなおじぃは隣のベッドのひとや、他の病室のひとまで、話しにいく。
俺は毎日学校が終わるたびに病院に通っていたが、病室にいた、ためしがなく、いつも病院に入っていったら、
『宮平源孝を見ませんでしたか?』
が、病院に着いてからの、やることのスタートのことでした。
NURSE STATIONへいき、
各部屋に歩きまわり、
時間をかけてやっと見つかったという感じである。
それから、入院生活が続き、治療をしていき、良くなっていた。
一時帰宅と一時退院が認められ、ちょこちょこと、帰ることが出てくるようになった。
そんな2002年4月6日頃の話だった。
突然おじぃが家で倒れ、病院に運ばれたのだ。
血糖値が急激にあがったためだった。
これから、交代制で、栄養素・カロリーを考えた食事を作ることとなる。
が、しかし、おじぃは甘いものが、大好きで、甘いものを見るとすぐ口に放りこむ。
ある日の出来事だ。
ある昼下がり。
みねぇー(母の姉)が、みんなで食べるからといって、1ホールのケーキを買ってきたんです。
そのケーキをテーブルに置いてあるとなんと、
30分?か1時間くらいで、一人で全部平らげてしまったのだ。
体重50kgしかないおじぃ。
あまりにも、お腹空いてひもじかったのでしょう。
これには、みんなで驚きました。
自宅に帰ってからというものの、おじぃはいてもたってもいられなく、
病気の体だのに、自分で車を運転して、佐敷までいったり、
あまかいくまはいをしたり、
冷蔵庫修理したり、
いろいろやって家族を数々の出来事で、びっくりと、驚かせられることがありました。
それから、何日かして、体調が悪化。
またもや、病院生活が始まりました。
病院と自宅の行ったり来たりの生活が始まりました。退院が一時帰宅になり、9月・10月には、病院を出ることすら、できなくなってしまいました。
それが、最後の生前の帰宅になるとは誰も予想もしていませんでした。
外出することができなくなり、みるみる悪化していくおじぃ。痩せていたおじぃが、みるみるうちにどんどん痩せていくおじい。
最後には、病院の窓越しに見るたびに、
『羊が飛んでいる』や
『山の上に人間が歩いてる』や
『山の上に牛がいる』や
『誰かが天井から呼んでるよ』
と幻覚・幻聴を見始めることとなりました。
それから、病院や家族からの容態がおかしいの電話が、夜中かかってくることが多くなりました。
そんなこんなした、7年前の、2002年12月9日…夜中3時頃、一本の電話で起こされることとなりました。
電話の相手は、よっちゃん(母の妹)からの電話だった。
『今すぐ病院にきて』
との電話であった。
先ほども書いたように、
ここ数ヶ月間、何回か、病院呼ばれることがあり、
『まだ大丈夫、いつか元気になるんだよ!』
という心が実際ありました。
そして、なにも考えることなく、いつも通りに病院へ向かった。
向かうと、みんな集まっており、おじぃを病院みんなで、囲んでいた。
みんなが、一生懸命、
『まだだよー』や
『しっかりしてー』とか
『みんないるから大丈夫だよ』
と声をかけたりしている。
俺と、よっちゃんは、必死に足や手に刺激を与えるため、手が疲れても休むことなく、マッサージをし、刺激を与えて、いた。
『かつたぅ〜(俺のこと)、お母さんいるね〜?』
という電話がかかってきて、
我が家に青い軽トラに乗ってきて、仕事の領収書をかかせるのが、日課で、毎日元気でパワフルで、青い軽トラに乗り、あまかいくまはいをしていた、おじい。
そんなおじぃに異変が起こることとなる。
すべての始まりは、2001年10月10日からが始まりだった。
いつも元気なおじぃが体調不良を訴えた。
いつも、元気なため、病院には絶対いかないおじぃが病院へいきたいといい、母が病院へ連れていったことがきっかけだった。
体調不良なのは、あたっていて、すぐ、入院をしなきゃいけないという話になった。
いざ、入院生活がスタートし、最初は病院が苦手なおじぃ。
大変だった。
だけど、人と会話の好きなおじぃは隣のベッドのひとや、他の病室のひとまで、話しにいく。
俺は毎日学校が終わるたびに病院に通っていたが、病室にいた、ためしがなく、いつも病院に入っていったら、
『宮平源孝を見ませんでしたか?』
が、病院に着いてからの、やることのスタートのことでした。
NURSE STATIONへいき、
各部屋に歩きまわり、
時間をかけてやっと見つかったという感じである。
それから、入院生活が続き、治療をしていき、良くなっていた。
一時帰宅と一時退院が認められ、ちょこちょこと、帰ることが出てくるようになった。
そんな2002年4月6日頃の話だった。
突然おじぃが家で倒れ、病院に運ばれたのだ。
血糖値が急激にあがったためだった。
これから、交代制で、栄養素・カロリーを考えた食事を作ることとなる。
が、しかし、おじぃは甘いものが、大好きで、甘いものを見るとすぐ口に放りこむ。
ある日の出来事だ。
ある昼下がり。
みねぇー(母の姉)が、みんなで食べるからといって、1ホールのケーキを買ってきたんです。
そのケーキをテーブルに置いてあるとなんと、
30分?か1時間くらいで、一人で全部平らげてしまったのだ。
体重50kgしかないおじぃ。
あまりにも、お腹空いてひもじかったのでしょう。
これには、みんなで驚きました。
自宅に帰ってからというものの、おじぃはいてもたってもいられなく、
病気の体だのに、自分で車を運転して、佐敷までいったり、
あまかいくまはいをしたり、
冷蔵庫修理したり、
いろいろやって家族を数々の出来事で、びっくりと、驚かせられることがありました。
それから、何日かして、体調が悪化。
またもや、病院生活が始まりました。
病院と自宅の行ったり来たりの生活が始まりました。退院が一時帰宅になり、9月・10月には、病院を出ることすら、できなくなってしまいました。
それが、最後の生前の帰宅になるとは誰も予想もしていませんでした。
外出することができなくなり、みるみる悪化していくおじぃ。痩せていたおじぃが、みるみるうちにどんどん痩せていくおじい。
最後には、病院の窓越しに見るたびに、
『羊が飛んでいる』や
『山の上に人間が歩いてる』や
『山の上に牛がいる』や
『誰かが天井から呼んでるよ』
と幻覚・幻聴を見始めることとなりました。
それから、病院や家族からの容態がおかしいの電話が、夜中かかってくることが多くなりました。
そんなこんなした、7年前の、2002年12月9日…夜中3時頃、一本の電話で起こされることとなりました。
電話の相手は、よっちゃん(母の妹)からの電話だった。
『今すぐ病院にきて』
との電話であった。
先ほども書いたように、
ここ数ヶ月間、何回か、病院呼ばれることがあり、
『まだ大丈夫、いつか元気になるんだよ!』
という心が実際ありました。
そして、なにも考えることなく、いつも通りに病院へ向かった。
向かうと、みんな集まっており、おじぃを病院みんなで、囲んでいた。
みんなが、一生懸命、
『まだだよー』や
『しっかりしてー』とか
『みんないるから大丈夫だよ』
と声をかけたりしている。
俺と、よっちゃんは、必死に足や手に刺激を与えるため、手が疲れても休むことなく、マッサージをし、刺激を与えて、いた。
今でも、おじいの肌触り・感触を忘れることなく覚えている。
そんなこんなで、しているうちに、
2002年12月9日午前11時24分
とうとう、、、
ペースメーカーの音が、ぴっぴっぴっ、ぴーと一定の音に変わり、数値は0という表示に変わっていました。
家族まわりが、
『とーちゃんいかないでー』となきじゃくりながら、いって何回も語りかけました。
看護師やおじさんたちが心臓マッサージをしましたが、帰ってくることはありませんでした。
医者は息を引き取ってからしか現れませんでした。
医者の言葉が、
『ご臨終です』
という言葉にみんな…泣きました。
涙が枯れるぐらい泣きました。
声をあげて....
いて当たり前のおじいがこの世から居なくなるなんて、夢にも思ってなかったから…
医者も医者で、最後の延命処置をしてくれなかった、医者も憎みました。こいつがもっと早くきていたら、まだいきれたはずだのにと。俺があの医者を恨み憎みました。
そんなこんなしているうちに、時が流れて行きました。亡くなった次の日の通夜の席、
自分は、生前にしてあげようと思っていた、
成人式なったら、お酒をくみかわすという、夢があったのですが、できなくなり、出棺の前の日の通夜、無言な乾杯をした。
おじぃが好きな、キリンの淡麗生で…
泣きながら、飲んだ。おじぃの棺のそばで…
悔しかった。おじぃを失うなんて。
俺は、おじぃにかなえたい夢が他にもあり、『曾孫の顔や嫁さんの顔を見せてあげたかった』ことや、曾孫をおじぃと遊んで欲しかったこと。
いろいろある。
正直、それが達成できなかった自分がショックでショックでたまらない。
しかも、おじぃが生きている、接した16年間…
全然なにもしてあげれなかった。
足りなかった…
まだまだやりたかった、
やりたいことがいっぱいあった。
おじぃと、冷蔵庫修理したり運んだり、買い出ししたり、畑したりといろいろやってきた。
おじぃから冷蔵庫の修理や畑仕事まだ、学んでる途中だよ?研修中のままだよ?俺はおじぃからいろいろ学んだけど、まだ全部学べてないよ?おじぃ…
まだまだ俺には足りなかった。16年という月日は短すぎた…足りなかった。
達成できなかった。辛かった。
2002年12月9日午前11時24分は
俺には忘れられない日にちと時間になった。
7年たった今、現在でも、12月9日午前11時24分は忘れられない時間になっている。
あの日の出来事は忘れられない。
今日仕事した日がとても辛かった。
だけど、1人でいたら何するかわからない自分がいて自問自答する自分がいる。
初めて、12月9日に仕事を休まず出勤した。
会社で、涙が出て声もつまらしてしまった。
今日1日涙が止まらなかった。
業務中もみんなに気付かれないように涙を拭って仕事をこなした。
やはり、自分にとっては、かなりきつい1日である。今日は、ビールグラスで乾杯できなかったけれど、いつか遺影を目の前にお酒…飲み交わそうね。
かみさんと曾孫の顔見せにいくからよ。遺影ごしかも知れないけど、ちゃんと見てよ?
今出来なかった分、春子おばぁ、トシ子おばぁ、におばぁ孝行しようと思います。絶対奥さんや曾孫、合わせるからね!
ここまでの日記を涙流しながら、書きました。
まだまだ書ききれない思い、いっぱいあるけど、この辺にします。
宮平源孝おじぃ。いつまでも、家族みんなを見守っていてね。
おじぃのあなたの笑顔が大好きです。
これからも、見守ってください。
よろしくね。
最後に、俺の携帯番号、下4ケタ『8192』には意味があるのです。
8は自分の誕生日。 192は、12月9日を逆さまにしただけなんです。
それぐらい俺はおじぃのことが忘れられないんです。
おしまい。
そんなこんなで、しているうちに、
2002年12月9日午前11時24分
とうとう、、、
ペースメーカーの音が、ぴっぴっぴっ、ぴーと一定の音に変わり、数値は0という表示に変わっていました。
家族まわりが、
『とーちゃんいかないでー』となきじゃくりながら、いって何回も語りかけました。
看護師やおじさんたちが心臓マッサージをしましたが、帰ってくることはありませんでした。
医者は息を引き取ってからしか現れませんでした。
医者の言葉が、
『ご臨終です』
という言葉にみんな…泣きました。
涙が枯れるぐらい泣きました。
声をあげて....
いて当たり前のおじいがこの世から居なくなるなんて、夢にも思ってなかったから…
医者も医者で、最後の延命処置をしてくれなかった、医者も憎みました。こいつがもっと早くきていたら、まだいきれたはずだのにと。俺があの医者を恨み憎みました。
そんなこんなしているうちに、時が流れて行きました。亡くなった次の日の通夜の席、
自分は、生前にしてあげようと思っていた、
成人式なったら、お酒をくみかわすという、夢があったのですが、できなくなり、出棺の前の日の通夜、無言な乾杯をした。
おじぃが好きな、キリンの淡麗生で…
泣きながら、飲んだ。おじぃの棺のそばで…
悔しかった。おじぃを失うなんて。
俺は、おじぃにかなえたい夢が他にもあり、『曾孫の顔や嫁さんの顔を見せてあげたかった』ことや、曾孫をおじぃと遊んで欲しかったこと。
いろいろある。
正直、それが達成できなかった自分がショックでショックでたまらない。
しかも、おじぃが生きている、接した16年間…
全然なにもしてあげれなかった。
足りなかった…
まだまだやりたかった、
やりたいことがいっぱいあった。
おじぃと、冷蔵庫修理したり運んだり、買い出ししたり、畑したりといろいろやってきた。
おじぃから冷蔵庫の修理や畑仕事まだ、学んでる途中だよ?研修中のままだよ?俺はおじぃからいろいろ学んだけど、まだ全部学べてないよ?おじぃ…
まだまだ俺には足りなかった。16年という月日は短すぎた…足りなかった。
達成できなかった。辛かった。
2002年12月9日午前11時24分は
俺には忘れられない日にちと時間になった。
7年たった今、現在でも、12月9日午前11時24分は忘れられない時間になっている。
あの日の出来事は忘れられない。
今日仕事した日がとても辛かった。
だけど、1人でいたら何するかわからない自分がいて自問自答する自分がいる。
初めて、12月9日に仕事を休まず出勤した。
会社で、涙が出て声もつまらしてしまった。
今日1日涙が止まらなかった。
業務中もみんなに気付かれないように涙を拭って仕事をこなした。
やはり、自分にとっては、かなりきつい1日である。今日は、ビールグラスで乾杯できなかったけれど、いつか遺影を目の前にお酒…飲み交わそうね。
かみさんと曾孫の顔見せにいくからよ。遺影ごしかも知れないけど、ちゃんと見てよ?
今出来なかった分、春子おばぁ、トシ子おばぁ、におばぁ孝行しようと思います。絶対奥さんや曾孫、合わせるからね!
ここまでの日記を涙流しながら、書きました。
まだまだ書ききれない思い、いっぱいあるけど、この辺にします。
宮平源孝おじぃ。いつまでも、家族みんなを見守っていてね。
おじぃのあなたの笑顔が大好きです。
これからも、見守ってください。
よろしくね。
最後に、俺の携帯番号、下4ケタ『8192』には意味があるのです。
8は自分の誕生日。 192は、12月9日を逆さまにしただけなんです。
それぐらい俺はおじぃのことが忘れられないんです。
おしまい。
Posted by ☆ガスト☆ at 11:24│Comments(0)
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